
ロンドンの美術館、ベンチ売却で「敵対的な家具」と批判 - アクセシビリティ巡り議論白熱
ロンドンのナショナル・ギャラリーで、長年親しまれてきた赤い革張りのベンチがオークションにかけられることが発表されました。この決定は、美術館の空間におけるアクセシビリティとデザインについての議論を巻き起こしています。一見すると単なる家具の入れ替えに見えるかもしれませんが、その背景には、現代美術館が抱える課題や、より多くの人々がアートに触れるための配慮が隠されています。
ベンチ売却の背景と新デザインへの賛否
ベンチ売却の理由
ナショナル・ギャラリーは、1年以上にわたる評価の結果、スペースのベンチ配置の合理化、訪問者のアクセス、デザインの耐久性、安全性、改修要件などを評価し、今回の売却に至ったと説明しています。オークションに出品される11脚のベンチは、1980年代から1990年代に制作されたヴィクトリアンデザインの複製で、1脚あたり最大1,200ポンドの評価額がついています。この動きは、ギャラリーのSainsbury Wingの改修や、より現代的・現代美術の収集計画といった、ギャラリー全体の再開発の一環でもあります。
新デザインへの批判と擁護
しかし、このベンチの入れ替えは、ソーシャルメディア上で賛否両論を呼んでいます。アート史家でありキュレーターのイザベル・ケント氏は、この変更が「美術館の空間の捉え方における、より大きな問題の兆候」であると指摘しています。彼女は、美術館は単に来て見て去るための実用的な空間ではなく、人々が楽しみ、探求し、あるいは単に過ごすためのレジャースペースであるべきだと主張します。快適でない空間は、美術館の根本的な理念を損なうというのです。
一方、ギャラリー側は、新しいオーク材のベンチは、健康と安全、特に火災リスクへの対応でもあると説明しています。以前の木製・革張りの家具は清掃が難しく、絵画に害を及ぼす可能性のある害虫を引き寄せる可能性があったとのことです。また、ギャラリーの広報担当者であるトレイシー・ジョーンズ氏は、新しいベンチは6ヶ月前から設置されており、以前のベンチは「オリジナル」ではなく、ギャラリーの歴史的デザインに由来するものではないと述べています。さらに、ギャラリーの初期には家具が全くなかったことや、時代とともに家具のデザインは大きく変化してきたことを指摘しています。
デザイン変更が示唆するアクセシビリティへの課題
「敵対的な家具」としての新デザイン
オンラインでの議論が過熱する中、ケント氏らは、新しいミニマルなデザインが、特にアクセシビリティの面で懸念があると指摘しています。彼女は、「以前の椅子は、アームレストと背もたれがあったため、移動に問題を抱える人や背中の痛みを抱える人にとって優れていましたが、新しい椅子は使えません。これは敵対的な家具であり、あなたを動かすためにデザインされています」と述べています。現代美術館のデザインが、障害を持つ人々や移動に困難を抱える人々にとって「敵対的」になりがちであるという批判は、現代美術館が抱える本質的な課題を浮き彫りにしています。
ギャラリー側の見解と今後の展望
ナショナル・ギャラリーは、アクセシビリティに関する懸念に対し、既存の家具にもアームレストや背もたれがないものがあると指摘しつつ、新しいベンチはギャラリーの空間のスケールと形状を考慮したデザインであり、絵画を鑑賞するための「長い眺め」を維持し、鑑賞の邪魔にならないように、低く配置されていると説明しています。最終的な目標は、訪問者が休憩し、熟考し、コレクションと対話するための最適なスペースを提供し、全体的な訪問者体験を向上させることにあるとしています。さらに、ギャラリーのアーカイブには、かつての赤い革張りベンチの詳細な写真とデザインが保管されており、将来的に再制作する意向があることも示唆しています。
考察:美術館は「体験」を提供する場へ進化すべきか
デザインとアクセシビリティのジレンマ
今回のナショナル・ギャラリーのベンチ売却騒動は、単なる家具の入れ替え以上の意味合いを持っています。現代美術館は、コレクションの展示だけでなく、訪問者にとっての「体験」を提供する場へと進化しています。その過程で、デザイン性や安全性、効率性といった要素が重視される一方で、かつては当たり前だった快適性や、多様なニーズを持つ人々への配慮が失われつつあるのではないでしょうか。特に、ケント氏が指摘する「敵対的な家具」という言葉は、現代美術館のデザインが、意図せずして一部の訪問者にとってバリアとなっている可能性を示唆しています。
「オリジナル」よりも「現在」の文脈を重視する意義
ギャラリー側が、売却されるベンチが「オリジナル」ではないと指摘した点は興味深いですが、むしろ、訪問者にとって長年親しまれてきた「馴染みのある存在」であったこと自体に価値があったのかもしれません。美術館の家具は、単なる機能部品ではなく、訪問者の記憶や体験と結びつく、ある種の「ランドマーク」となり得るからです。しかし、ギャラリーが目指すのは、より現代的で、スペースを最大限に活用し、絵画鑑賞に集中できる環境です。このバランスをいかに取るかが、今後の美術館運営における重要な課題となるでしょう。
多様なニーズに応える美術館の未来
今回の議論は、美術館が「すべての人」にとって開かれた空間であるためには、デザイン、機能、そしてアクセシビリティの間の複雑なバランスを継続的に模索する必要があることを示しています。新しいベンチが、ギャラリーの意図通り、より多くの訪問者に絵画との深い対話の機会を提供するのか、それとも一部の訪問者にとってさらなるバリアとなるのか、その真価は今後の運用によって問われることになります。美術館が単なる美術品の陳列室ではなく、多様な人々がアートを通じて自己を発見し、他者と繋がるための「公共空間」として機能し続けるためには、このような議論を深めていくことが不可欠です。