
英仏「危険な旅」防止合意の深層:実務上の課題と密航業者への影響
近年、イギリス海峡を渡る小舟での危険な旅が増加しており、これに対処するため、イギリスとフランスは「危険な旅の防止に関する合意」を締結しました。本稿では、この合意の背景、具体的な内容、そしてそれがもたらす影響について、専門的な見地から解説します。
合意の概要と背景
2025年8月6日に発効したこの合意は、イギリスとフランスが協力して、小舟による危険な越境を阻止することを目的としています。イギリス政府は、これを「犯罪的密輸業者のビジネスモデルを解体する」ための画期的な一歩と位置づけています。
1. 合意の背景
合意の政治的な推進力は、イギリス政府が抱える、英仏海峡を渡る渡航者の増加を抑制しなければならないという圧力にあります。フランス側でも、この現象が沿岸地域に与える影響から、同様の削減を求める声が上がっています。特に、イギリスがEUを離脱したことにより、EU域内での移送者受け入れに関する従来の枠組みへのアクセスを失ったことも、この合意形成の背景にあると考えられます。
2. 合意の主な内容
この合意は、一方的な「安全な第三国」としてのフランスへの移送と、フランスからイギリスへの移送を組み合わせたスキームとなっています。具体的には、イギリスに小舟で到着し、入国・滞在の条件を満たさない個人を、可能な限り迅速にフランスに送還・再入国させることを規定しています。同時に、フランスからイギリスへの移送も行われ、双方向の移送者数が「定期的に均衡する」ことが目指されています。ただし、この合意は2026年6月11日まで有効であり、延長されない限り失効します。
3. 「危険な旅」の定義と移送の条件
合意において「危険な旅」の定義は限定的であり、具体的に何が「危険」とみなされるかの明確な指示はありません。「小型船舶」の定義も広範で、サイズが明記されていない「民間船舶」も含まれます。イギリス当局は、特定の条件(14日以内の小舟での渡航、フランスからの渡航、国家安全保障や公序良 গ্রাহকへのリスクがないことなど)を満たす個人をフランスへ送還する資格があると判断します。また、難民条約や欧州人権条約に基づく請求が係属中でなく、フランスとの間で移送者数の均衡が取れていることも条件となります。
考察:実務上の課題と今後の展望
この合意は、亡命希望者の受け入れを外部化する試みの一例ですが、その実務的な運用にはいくつかの課題が指摘されています。
1. 移送手続きのタイムライン
合意で定められた移送手続きのタイムラインは非常に厳格ですが、イギリス国内法や実務において、これらすべてを短期間で完了させることが可能かどうかは疑問視されています。特に、年齢査定が必要な未成年者の場合、手続きが遅延する可能性があります。また、これらの決定が司法審査の対象となる可能性も考慮すると、3ヶ月という期間内に全てのプロセスが完了するとは限りません。
2. フランスからの移送に関する国内体制
イギリス国内における、フランスからの移送に関する体制も実務的な課題を抱えています。合意に基づきイギリスが受け入れる人物の選定基準が不明確であり、潜在的な申請者が増加した場合、どのように選別されるのか、その基準が示されていません。家族単位での受け入れが優先される可能性は示唆されていますが、具体的な基準の欠如は、申請者にとって不確実性を高め、司法審査の対象となる可能性も否定できません。
3. 密航業者への影響と排除される層
この合意が、小舟での渡航を抑止する効果を持つかどうかも未知数です。特に、過去に申請が却下された者、身元や国籍の証明が困難な者、フランスでの所在地の明示を恐れる者など、多くの人々がこのスキームから事実上排除される可能性があります。これらの人々は、依然として密航業者を利用する市場を形成し続ける可能性があり、根本的な解決には至らないかもしれません。
結論:懸念と将来への示唆
現時点では、この合意が短期的に不規則な越境旅行に対する大幅な抑止力となるかは、依然として疑問が残ります。もし越境が続いた場合、合意の延長や新たな対策が講じられる可能性がありますが、いずれの場合も、政治的な圧力の中で「非難送還(refoulement)の原則」を一貫して保護することが、重要な課題となるでしょう。