
ウィリアム・モリスが再定義した「理想の書物」:ケルムスコット・プレスと『チョーサー』の芸術的遺産
モリスの「タイポグラフィカル・アドベンチャー」
1891年、ウィリアム・モリスは友人のエメリー・ウォーカーの講義に触発され、自身の「タイポグラフィカル・アドベンチャー」としてケルムスコット・プレスを設立しました。これは、当時の大量生産され、質が低下していたヴィクトリア朝時代の出版業界へのアンチテーゼであり、15世紀の印刷技術とタイポグラフィへの回帰を目指すものでした。モリスは、紙、文字の形状、文字間隔、行間、そして印刷面の配置といった要素を重視し、芸術的な観点から実用的な印刷術に取り組んだ最初の人物となりました。
「理想の書物」の追求
ケルムスコット・プレスでは、モリス自身がデザインした「ゴールデン」「トロイ」「チョーサー」の3つの書体を開発しました。これらの書体は、ニコラ・ジェンセンなどの15世紀の印刷工に倣ったものでした。また、紙も15世紀のサンプルに基づいた手漉き紙を使用し、モリスがデザインした「フラワー」「パーチ」「アップル」という透かし模様が施されました。インクはドイツのゲブルーダー・ヤーネッケ社から供給され、手動のアルバイオン・プレスを用いて印刷されました。これらのこだわりは、モリスが「印刷と配置の観点から見て、見るのが喜びとなるような書物」を制作するという目標を達成するためのものでした。
芸術家チームによる制作
ケルムスコット・プレスで出版された書籍のデザインは、モリスが主導し、彫刻家のウィリアム・ハーコート・フーパー、技術顧問のエメリー・ウォーカー、印刷師のウィリアム・ボーデンといった専門家チームによって制作されました。挿絵の多くは、エドワード・バーン=ジョーンズ、チャールズ・ゲア、ウォルター・クレーン、アーサー・ガーキンらが担当しました。モリス自身も23冊の書籍を執筆しており、その他にも中世の作品、19世紀の詩、『ベーオウルフ』、『シェイクスピア詩集』などが制作されました。
『ケルムスコット・チョーサー』:モリスの集大成
「ポケット大聖堂」と称された傑作
ケルムスコット・プレスの最も重要な成果とされるのが、『ジェフリー・チョーサー作品集』、通称『ケルムスコット・チョーサー』です。この書籍は、モリスの死の4ヶ月前にあたる1896年に出版されました。詩人のW.B.イェイツはこの本を「すべての印刷された書物の中で最も美しい」と評し、同時代の批評家も「そのスタイルにおいて、疑いなく最高の出来栄え」と称賛しました。この書籍は、エドワード・バーン=ジョーンズによる87点の木版挿絵、モリスがデザインした18点のフレーム、14点の飾り罫、26点の装飾文字など、まさに書籍とグラフィックデザインの傑作です。限定425部が活版印刷で、13部がベラム紙で印刷されました。
モリスとバーン=ジョーンズの友情と芸術的共鳴
モリスとバーン=ジョーンズは、オックスフォード大学時代の友人であり、生涯にわたる協力者でした。二人は中世美術や詩を愛し、その共通の情熱が『ケルムスコット・チョーサー』という最終プロジェクトに結実しました。バーン=ジョーンズは、このプロジェクトを「ポケット大聖堂」と表現し、モリスを「世界で最も偉大な装飾の達人」と称賛しました。この書籍では、チョーサー書体とトロイ書体によるタイポグラフィ、そしてバーン=ジョーンズの独特な挿絵を囲むフレームや飾り罫との調和が見事に実現されています。モリスは、『ケルムスコット・チョーサー』を通じて、「その本のためだけに、その本に適した挿絵で飾られた書物は、何物にも劣らない芸術作品となりうる」という理想を体現しました。
モリスのデザイン哲学が現代に与える影響
書籍を芸術作品として捉える視点
『ケルムスコット・チョーサー』の出版からわずか4ヶ月後、モリスは1896年10月3日に亡くなりました。彼の死後、ケルムスコット・プレスはモリスが計画していた残りの11冊の出版を最後に、1898年に閉鎖されました。最後の書籍は『1898年ケルムスコット・プレス設立の意図について』と題されたモリス自身の文章でした。モリスは、ケルムスコット・プレスでの仕事を通じて、書籍を「単に読むだけでなく、視覚的にも楽しめる芸術作品」へと昇華させました。彼のデザイン哲学と基準を製本に適用することで、私たちは書物を読むだけでなく、鑑賞する対象としても捉えることができるようになったのです。
デザインにおける「理想」の追求
ウィリアム・モリスのデザイン哲学は、単に過去の様式を再現するものではありませんでした。それは、現代の大量生産社会における「ものづくり」の本質的な課題に目を向け、手仕事の価値、素材への敬意、そして細部へのこだわりを再評価するものでした。ケルムスコット・プレスで追求された「理想の書物」は、現代のデザインにおいても、効率性や経済性だけでは測れない、美しさや精神的な豊かさの重要性を示唆しています。モリスの遺産は、私たちが日々触れるあらゆるデザインのあり方について、深く考えさせられるきっかけを与えてくれます。