気候変動リスク評価の誤算:経済モデルはなぜ真実を見誤ったのか

気候変動リスク評価の誤算:経済モデルはなぜ真実を見誤ったのか

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気候変動の経済的リスク評価において、主流となっている経済モデルがその深刻さを見誤っている可能性が指摘されています。エクセター大学とカーボン・トラッカーの研究者による新たな研究は、長年「決着済み」と見なされてきたこの議論に再び火をつけました。本記事では、これらのモデルがなぜ気候変動の真のリスクを捉えきれていないのか、そしてそれが私たちの政策決定にどのような影響を与えているのかを深く掘り下げていきます。

主流モデルの功績と深まる疑問

DICEモデルの登場と経済的枠組みへの統合

William Nordhaus氏が開発したDICE(Dynamic Integrated model of Climate and the Economy)モデルは、気候変動を経済分析の枠組みに取り込み、排出量、気温上昇、経済的影響を統合する先駆的な役割を果たしました。これにより、気候政策の議論に経済的視点が不可欠なものとなりました。

DICEモデルの基本構造とその楽観性

DICEモデルは、経済成長に伴う排出量の増加、それによる気温上昇、そして気温上昇が経済成長を抑制するという、気候変動を「経済最適化問題」として捉えています。その結論は、気候変動による経済的損失は存在するものの、GDPの数パーセント程度に収まり、継続的な経済成長と適応によって管理可能であるというものでした。

損害関数の不確実性

モデルの根幹をなす「損害関数」(気温上昇とGDP損失の関係)は、過去のデータに基づくものではなく、限定的な観測や専門家の判断で調整されています。この関数のわずかな変化が、将来の経済損失予測を大きく左右するため、その推定値の精度には疑問が呈されています。

割引率による将来世代への負担

DICEモデルでは、将来の損害よりも現在の損害を重視する「割引」が適用されます。これは、将来世代の犠牲の上に現在の世代の消費を優先することにつながり、単なる技術的計算ではなく、倫理的・規範的な価値判断が内包されていることが問題視されています。

リスク理論との乖離:ティッピングポイントの過小評価

気候変動には、氷床融解や海流の変化といった「ティッピングポイント」や、予測不能な「カタストロフィックな結果」を招くリスクが伴います。DICEモデルは、これらのリスクを平滑化・平均化してしまうため、壊滅的なシナリオを過小評価し、結果としてより高い気温上昇を許容する政策を推奨する傾向があります。

GDP尺度の限界:見過ごされる本質的損失

GDPは市場活動を測る指標であり、生活の質や幸福度を反映しません。災害後の復興支出はGDPを増加させますが、生活の喪失やコミュニティの崩壊といった本質的な損失は見過ごされがちです。気候変動による損害をGDP比で表すことは、これらの重要な側面を視野から外してしまう可能性があります。

移住という新たな変数:経済モデルでは捉えきれない影響

気候変動による移住・避難民の増加

最近の研究では、経済モデルが気候変動による「移住」や「避難民」の増加といった、より複雑な影響を十分に考慮していないことが指摘されています。これらの現象は、単なる経済的損失ではなく、人々の生存基盤が脅かされた際の行動的・社会的な反応であり、GDPベースの損害関数では捉えきれない非線形なダイナミクスを持っています。

シリア難民危機:ストレス・マルチプライヤーとしての気候変動

シリアで発生した壊滅的な干ばつは、農村部から都市部への大規模な人口移動を引き起こし、その後の内戦の激化と、それに伴う広範な難民危機の一因となった可能性が指摘されています。この出来事は、気候変動が政治的・社会的不安定性を増幅させる「ストレス・マルチプライヤー」として機能する可能性を示唆しています。

中米「乾いた回廊」:複合的要因と移住

中米の「乾いた回廊」地域では、繰り返される干ばつと熱波が小規模農家の収穫量を減少させ、貧困や融資へのアクセス不足、脆弱な国家能力と相まって、米国への移住を促進しています。気候変動は、これらの複合的な要因と相互作用し、移住を合理的な選択肢としています。

GDPでは測れない越境影響

これらの事例から、気候変動による最も重大な影響は、地域的な生産性の低下ではなく、国境を越えた波及効果、すなわちガバナンス、財政、政治的安定性への影響であることがわかります。これらの影響は、DICEモデルが重視する高い気温上昇レベルよりもはるかに低いレベルで顕在化し始めており、割引率によってその重要性が過小評価されています。

考察:気候変動リスク評価のパラダイムシフト

経済モデルの根本的見直しと「最適解」の終焉

シリアや中米の事例が示すように、気候変動による移住やそれに伴う政治的・社会的不安定化は、もはや将来の遠いリスクではなく、現在の現実です。これらの影響は、GDPの減少といった単純な指標では捉えきれず、社会・政治システムを通じて経済に波及します。したがって、気候変動のリスク評価は、損害関数を微調整するのではなく、評価の枠組みそのものを見直す必要があります。気候変動による影響が、単なる局所的な経済損失にとどまらず、大規模な人口移動や社会システムの動揺を引き起こすメカニズムとして理解されるようになると、「経済的に最適な温暖化レベル」という考え方は成り立たなくなります。気候変動は、もはや経済成長モデルに組み込めるような「外部性」ではなく、社会全体を再構築する「能動的なストレス要因」となっているのです。

リスク管理への転換と行動の遅延

従来のDICEモデルのような最適化アプローチは、平均的な損害や離散的な変化を前提としていますが、気候変動の不確実性や非線形性を考慮すると、リスク管理の視点が不可欠です。これは、予測不可能な事態に備え、レジリエンスを高めるための戦略へと移行することを意味します。損害が過小評価され、将来の損害が割引かれることで、推奨される炭素価格は低く抑えられ、緩和策の導入が遅れてきました。これは、気候変動の物理的リスクを否定するのではなく、経済モデルが示す「時間的猶予」を、実際には行動を遅らせるための口実として利用されてきた側面があることを示唆しています。ノーベル賞に裏打ちされた経済学の権威が、むしろ行動を遅らせる「盾」として機能してきたという皮肉な現実があるのです。

「エレガントな抽象」から「複雑な現実」への対応

今後は、洗練された数式モデルによる抽象的な議論から離れ、現実の複雑なフィードバックメカニズム、特に移住、制度的ストレス、政治的反発といった、すでに観測されている現象を理解し、それに対応していく必要があります。気候変動への対応は、経済学の範囲を超え、社会科学、政治学、そして国際協力といった、より広範な分野との連携が不可欠となるでしょう。

画像: AIによる生成